ミルクセーキ

 小学生のころ、まだコンビニはなくて近所には二軒の小さな個人商店があった。煙草や酒を前面に出しつつ、菓子類や飲み物に調味料や衣類用洗剤までもが所狭しと置かれている、そんな商店だ。わたしは五百円玉を握りしめて、店までの二百メートルほどの道のりを歩いた。より好きだったのは、川の向こうにある店で、こちらには菓子類が多く、ガチャガチャもあってさらに店頭に古びた据置のビデオゲームが置いてあった。小学生のわたしはビデオゲームをやったことはなく、遊んでいるのはいつも中学生や高校生のような、声変りをして低い獣のような笑い声を立てる若者たちだった。それを横目に、わたしは三ツ矢サイダーやポテトチップスと一緒に、駄菓子を数点買い足して家に帰った。

 一度だけ、スキップ交じりでその店へ向かう道すがら、握りこぶしからすり落ちた五百円玉が、そのまま側道の排水路に落ちてしまったことがあった。当時の溝には蓋もなく、家々からの排水はヘドロとなって堆積し、そこに落ち葉や土が混じって線虫のような生き物もうごめいている場所だった。わたしは慌てて木の枝で溝を捜索するのだが硬貨は一

向に出てこなくて、いっそのこと手を突っ込んでかき混ぜるように探せば見つかるのだろうとも思いながら、諦めて家に帰った。母は予想よりも数倍の剣幕で怒り出し、見つかるまで帰ってくるなと熱湯を吹き出すように叱った。

 大事なものは握りしめるのではなく、きちんとしかるべきところにしまうこと。そう心に刻んだ日でもあった。しかしつい先日、車の鍵がふとした拍子に手をすり抜けて、機械式駐車場の奥底まで落ちてしまった。握ったはずなのにと手のひらを呆然と眺めた。幼いころの記憶がつながった瞬間だった。

 二軒の商店とは別の方向に自動車学校の学生寮があって、その老朽化したアパートの入り口に自動販売機が置かれていた。明かりの少ない近所にあって、煌々と光るその様は、夜という一日の終わりに抵抗しているようで、妙に頼もしく感じたものだ。

その自販機には三日に一度は飲み物を買いに行った。夜の六時には店は閉まるので、風呂上がりになにかジュースが飲みたくなると、母にせがんで二百円を貰った。時には父の分も入れて三百円を、わたしはポケットの奥に詰めて全速力で自販機に向かった。その光は頼もしかったが、守ってくれるのは光の届く狭い範囲だけで、深い問の中には得体のしれない悪が潜んでいるような気がした。

 二軒の個人商店にも自販機はあった。今では懐かしい瓶入りのコカ・コーラや、マウンテンデューなんかが並んでいた。でもわざわざ暗い小道を抜けた先にある学生寮まで買いに行っていたのは、ミルクセーキがあったからだ。可愛らしい牛のイラストと柔らかなクリーム色のパッケージで、冬季にだけ売っていた。温かいものしかなく、猫舌のわたし

は熱い飲み物は苦手だったのだが、実家の狭い六畳の居間で、父と母が笑っている幸福の中、あて布をしたまま缶を開けて恐る恐る口に含んだミルクセーキは、いつも飛び切り甘かった。甘すぎてもういらないとなる一歩手前の、絶妙な甘さが広がって、六畳の空間すべてがとろりと、滑らかで優しい空気に包まれるような感覚を抱いたまま、眠る時間を迎えるのだった。

 そのミルクセーキは、ある日忽然と自販機からなくなって、次の冬にも復活しなかった。そして奈が取り壊されると同時に、自販機もなくなった。それから今まで他の場所で一度も、そのミルクセーキを見つけることはできていない。