鬼滅の刃

 久しく映画館に行っていなかった。子どもが小学校に上がるまでは、戦隊もののテレビ番組が大好きだったから、映画版が上映されると連れて行った。仮面ライダーと同時上映で、入り口では来場者限定のグッズがもらえた。地面に足がつかない状態で食い入るように観て、家に帰ってからもおもちゃのベルトを着けて遊んでいた。

 その息子が「映画行きたい」というので、よく考えてみたら5年間も足を運んでいなかったことに気がついた。ウイルスの問題もあったから、映画館という場所はどこか遠い異国のような存在になってしまっていた。

 連日ネットでもテレビでも話題になっている鬼滅の刃は、想像していたとおり感情を揺さぶる作品だった。映画というと、若いころは字幕じゃなきゃダメだとか、あの俳優の演技はやっぱり超一流だとか、そういうことを言う人が多かった。日本映画はテレビドラマ以上映画未満のような扱いをする友人も多かった。

 そもそも英語がわからなくて字を読みながら観る時点で、その作品を同じ高さから賞していないのだし、言葉に込められた感情が字でしか感じ取れないのなら、その人の本質的な演技なんてわかるはずもないよなと、思ってしまう。

 息子はしっかり地面に足をつけて、マスクを着けたまま静かに見入っていた。その横顔は保育園児のころと変わらず、真剣な面持ちだった。映画館の圧倒的な言葉に驚いているのか、家とは違ってきちんと椅子に座っているからか、たまにペットボトルを口に運ぶ以外に目をそらさない。

 鬼滅の刃は夏過ぎに急にアレビアニメを見た。ネットフリックスで集中的に通して見た感じだ。見始めてすぐに、どこかで見聞きしたような筋書きが複合的に合わさっている印象を受けた。新新さはないのだが、何十年も小説や映画や漫画を読んでいれば、この世に斬新な物語なんてそうそうあるものではないことに気づく。設定を集めて再構築して、その組み立て方で新しさを出すのが普通だと思う。もちろんまったく新しい設定や環境やストーリーが出現することもあって、そういう作品に出合うと言葉を失うほど驚くことがある。どちらにしても、人の想像力に訴えかけてくるような作品は、いつだって心が焼き立つ。

 映画はアレビアニメの続きから始まり、鬼滅の刃という物語の途中で終わる。なにも解決していないし、道筋すら示されない。希望もないが絶望もない状態で、見る者は取り残される。この途中であるということと、隣にいる小学生の子どもを重ねて、ふと悲しくなった。わたしたちはいつだってこの世界の途中に生まれて、途中で死んでいく。子どもの成長も途中まで見守って、あとのことは知らずに消えていく。今まで物語を幾多も楽しんできたが、最後まで見届けられることなんて現実にはほとんどないことを知る。

 かといって、子どもを最後まで見るなんてことは、悲劇だ。途中までしか知らないことが自然だし、ハッピーエンドでもある。この世界についても、終焉を知るなんてことはあってはならない。だから途中は悲しいことではなく、いたって通常なことなのだ。幸福とは途中にしかないのかもしれない。

 そうはいっても、この映画の続きはもちろん気になる。そして最後まで見届けたいと思っている。小説や映画はなんて贅沢な娯楽だと、改めて感じるのだ。