記録に残る0.75秒だけの哀愁

 母の写真を見ると、ほとんどの場合目をつむっている。一枚二枚ならまあドンマイというレベルなのだが、同じ日に同じような場所で撮影したと思われるものが幾枚も目を閉じていると、底知れぬ恐怖すら感じる。

 湖の前で手だけの横で広げて(このポーズもまた問題ではあるが)、眠ったように目を閉じている写真。

 カニを顔の前に掲げて目を閉じている写真。むしろカニのほうが目を開いているというブラックジョーク。

 子どもの結婚式でも目を閉じて笑っている写真。どこか仏の高貴さすら感じさせる。

 ざっと眺めてみると、尋常ではない確率で母は目を閉じている。もはや、目を閉じていることが普通なのではないかと思えてくる。写真で目を開けてしまうと、内に秘めた力が放出されてしまうかのように、それを避けるために敢えて閉じているかのように。

 考えてみれば、人が瞬きをする時間は0.75 秒程度、成人女性は1分間に15回ほどするようなので、時間にすると1分間に 12 秒ほど、つまり意識せず写真を撮られた場合、5回に1回は目をつむっているか、半開き等開眼していない状態となるわけだ。これは思いのほか頻度が高いのだが、通常写真を撮るときには撮りますよという精神的準備があるため、瞬きの確率はぐっと減るのではないだろうか。

 わたしはなぜ母が目を閉じてしまうのか、アルバムをめくりながら考えた。写真を撮られるという緊張から逆に目をつむってしまうという現象もよくあることだが、それにしても頻度が恐るべき高さなので、そんなに毎回緊張するものかとも思ってしまう。

 やがて、タイミングが絶妙にずれているのだとそういう結論に至った。

 はい撮りますよ、という合図から、普通人はシャッターを実際に 時間を予測する。これは徒競走の時に「用意!」からピストルが鳴るまでの時間を予測するのに似ている。この予測が、母の場合普通よりも遅れているのではないか。つまり「撮りますよ」の2秒後

にシャッターが切られるのが平均的であるとするなら、母は2.1 秒後にシャッターが切られると判断している。よってまだシャッターが切られていないのに瞬きをしてしまうのではないか。

 この予測システムが身についてしまっているがための悲劇なのだとすると、母は今までもこれからも写真のたびに目をつむっていることになる。おそらく、母は学生時代の徒競走でいつも出遅れてスタートしていたはずである。タイミングの取り方が普通の人よりワンテンポ遅いからだ。

 そんな母の幼少期からのことを考えていたら、少し悲しい気持ちになった。意識せずに人とは違う行動様式や考え方が身についているということは、きっと誰にでもあるのだ。待ち合わせには必ず10分前に来るのに、人が遅刻してもなんとも思わない人。皆がやりた

がることがあるときに、順番を譲れる人、そういう特性を持った人がいる。これは善良なタイプだ。しかしその逆で、損ばかりする特性を身につけた人だっているのだ。

 そんなことを考えながら再び母の写真に目をやる。笑いながら目を閉じている姿は、やはり滑格だ。