記録に残る0.75秒だけの哀愁

 母の写真を見ると、ほとんどの場合目をつむっている。一枚二枚ならまあドンマイというレベルなのだが、同じ日に同じような場所で撮影したと思われるものが幾枚も目を閉じていると、底知れぬ恐怖すら感じる。

 湖の前で手だけの横で広げて(このポーズもまた問題ではあるが)、眠ったように目を閉じている写真。

 カニを顔の前に掲げて目を閉じている写真。むしろカニのほうが目を開いているというブラックジョーク。

 子どもの結婚式でも目を閉じて笑っている写真。どこか仏の高貴さすら感じさせる。

 ざっと眺めてみると、尋常ではない確率で母は目を閉じている。もはや、目を閉じていることが普通なのではないかと思えてくる。写真で目を開けてしまうと、内に秘めた力が放出されてしまうかのように、それを避けるために敢えて閉じているかのように。

 考えてみれば、人が瞬きをする時間は0.75 秒程度、成人女性は1分間に15回ほどするようなので、時間にすると1分間に 12 秒ほど、つまり意識せず写真を撮られた場合、5回に1回は目をつむっているか、半開き等開眼していない状態となるわけだ。これは思いのほか頻度が高いのだが、通常写真を撮るときには撮りますよという精神的準備があるため、瞬きの確率はぐっと減るのではないだろうか。

 わたしはなぜ母が目を閉じてしまうのか、アルバムをめくりながら考えた。写真を撮られるという緊張から逆に目をつむってしまうという現象もよくあることだが、それにしても頻度が恐るべき高さなので、そんなに毎回緊張するものかとも思ってしまう。

 やがて、タイミングが絶妙にずれているのだとそういう結論に至った。

 はい撮りますよ、という合図から、普通人はシャッターを実際に 時間を予測する。これは徒競走の時に「用意!」からピストルが鳴るまでの時間を予測するのに似ている。この予測が、母の場合普通よりも遅れているのではないか。つまり「撮りますよ」の2秒後

にシャッターが切られるのが平均的であるとするなら、母は2.1 秒後にシャッターが切られると判断している。よってまだシャッターが切られていないのに瞬きをしてしまうのではないか。

 この予測システムが身についてしまっているがための悲劇なのだとすると、母は今までもこれからも写真のたびに目をつむっていることになる。おそらく、母は学生時代の徒競走でいつも出遅れてスタートしていたはずである。タイミングの取り方が普通の人よりワンテンポ遅いからだ。

 そんな母の幼少期からのことを考えていたら、少し悲しい気持ちになった。意識せずに人とは違う行動様式や考え方が身についているということは、きっと誰にでもあるのだ。待ち合わせには必ず10分前に来るのに、人が遅刻してもなんとも思わない人。皆がやりた

がることがあるときに、順番を譲れる人、そういう特性を持った人がいる。これは善良なタイプだ。しかしその逆で、損ばかりする特性を身につけた人だっているのだ。

 そんなことを考えながら再び母の写真に目をやる。笑いながら目を閉じている姿は、やはり滑格だ。


鬼滅の刃

 久しく映画館に行っていなかった。子どもが小学校に上がるまでは、戦隊もののテレビ番組が大好きだったから、映画版が上映されると連れて行った。仮面ライダーと同時上映で、入り口では来場者限定のグッズがもらえた。地面に足がつかない状態で食い入るように観て、家に帰ってからもおもちゃのベルトを着けて遊んでいた。

 その息子が「映画行きたい」というので、よく考えてみたら5年間も足を運んでいなかったことに気がついた。ウイルスの問題もあったから、映画館という場所はどこか遠い異国のような存在になってしまっていた。

 連日ネットでもテレビでも話題になっている鬼滅の刃は、想像していたとおり感情を揺さぶる作品だった。映画というと、若いころは字幕じゃなきゃダメだとか、あの俳優の演技はやっぱり超一流だとか、そういうことを言う人が多かった。日本映画はテレビドラマ以上映画未満のような扱いをする友人も多かった。

 そもそも英語がわからなくて字を読みながら観る時点で、その作品を同じ高さから賞していないのだし、言葉に込められた感情が字でしか感じ取れないのなら、その人の本質的な演技なんてわかるはずもないよなと、思ってしまう。

 息子はしっかり地面に足をつけて、マスクを着けたまま静かに見入っていた。その横顔は保育園児のころと変わらず、真剣な面持ちだった。映画館の圧倒的な言葉に驚いているのか、家とは違ってきちんと椅子に座っているからか、たまにペットボトルを口に運ぶ以外に目をそらさない。

 鬼滅の刃は夏過ぎに急にアレビアニメを見た。ネットフリックスで集中的に通して見た感じだ。見始めてすぐに、どこかで見聞きしたような筋書きが複合的に合わさっている印象を受けた。新新さはないのだが、何十年も小説や映画や漫画を読んでいれば、この世に斬新な物語なんてそうそうあるものではないことに気づく。設定を集めて再構築して、その組み立て方で新しさを出すのが普通だと思う。もちろんまったく新しい設定や環境やストーリーが出現することもあって、そういう作品に出合うと言葉を失うほど驚くことがある。どちらにしても、人の想像力に訴えかけてくるような作品は、いつだって心が焼き立つ。

 映画はアレビアニメの続きから始まり、鬼滅の刃という物語の途中で終わる。なにも解決していないし、道筋すら示されない。希望もないが絶望もない状態で、見る者は取り残される。この途中であるということと、隣にいる小学生の子どもを重ねて、ふと悲しくなった。わたしたちはいつだってこの世界の途中に生まれて、途中で死んでいく。子どもの成長も途中まで見守って、あとのことは知らずに消えていく。今まで物語を幾多も楽しんできたが、最後まで見届けられることなんて現実にはほとんどないことを知る。

 かといって、子どもを最後まで見るなんてことは、悲劇だ。途中までしか知らないことが自然だし、ハッピーエンドでもある。この世界についても、終焉を知るなんてことはあってはならない。だから途中は悲しいことではなく、いたって通常なことなのだ。幸福とは途中にしかないのかもしれない。

 そうはいっても、この映画の続きはもちろん気になる。そして最後まで見届けたいと思っている。小説や映画はなんて贅沢な娯楽だと、改めて感じるのだ。


あの記憶

 たぶん生きているという実感を持つということは、思い出すことのできる過去があるこ

と。現在をきちんと認識できて、その足りていないものを未来への望みにしたり、満足していることはずっと続いていくようにと、考えることだと思う。

 幸せだとか悲しいだとか、あるいは無感情になって虚しいだとか、好きだとか嫌いだとか、それよりももっと些細な、美味しいだとか物足りないとか、釣り合うとか損をしたとか、そういう心の動きもすべてこの脳が担っているというのは、心底驚いてしまう。

 恐怖すら感じる。

 父が脳梗塞の初期症状の段階で入院して、検査の結果ほとんど機能に異常はないとされ

たのだが、それでも家族からすると以前の父とはまるで違う状態になってしまっている。

 徐々に思い出してくるでしょう、と医師には言われているようだが、わたしはあまり期

待できないでいる。

 先日実家に行き、4時間ほど父とふたりで過ごした。親子で話すことはさほどない。普段なにをしているのか、買い物はどこへ行っているのか、食事はとれているかと日常のことは聞くものの、その答えひとつひとつを待つのがとても怖い。思い出せなかったり、あるはずのない返答があったらどうしようかと、始終怯えている状況で、だから次第に質問は減ってしまう。

 実家の窓から見える空は低くて、そもそも窓は小さくて天井も低い。この狭い部屋で両親と一緒に毎日過ごしていたのだと、その昔を思い出す。この小さな家がわたしのすべてだった。学校とこの家と、行き来していただけだったのに、世界はとてつもなく広く感じた。

 父は運転が好きだったので、その頃のハンドルを握る横顔を思い出した。真剣なまなざしで、絶えずハンドルを左右に少しだけ動かしていた。

「なんでまっすぐの道でハンドルを動かすの?」

「うん。退屈しちゃうだろう? だから車が曲がらない程度にね、こうやってハンドルを動かすんだよ」

 その会話は何気ない日常の、特別でも何でもないひとコマだ。なのに今でも妙にはっきりと覚えている。小学生のわたしは、いつか自分も運転するときはその動作を真似てみたいと思ったのだ。

 記憶はその人その人によって価値がまるで異なる。人生の重大イベントくらいは、記憶という部屋の大きなクローゼットにきちんとしまわれているのかもしれないが、それ以外の記憶の管理状況は本人以外誰にもわからない。

 父には父の大切な記憶がある。そしてその記憶の積み重なりが現在のその人を作ってい

る。過去から現在につながる自分の記憶、その連鎖がなければ、もはやわたしがわたしである根拠はないのかもしれない。どんな重要な身分証明でも、それは証明できない。

 父の中にある記憶は今回の件で大きく欠落してしまった。父の歴史の一部が消失して、過去がなければ現在の父についても一部が失われてしまったことになる。それを補うのは、父を知る人間、最も近しいのは家族であり、わたしたちが父の姿を記憶しているという事実そのものが父を父たらしめている。

 実体よりも大切なものは、各人の心の中にしかないのだとすると、このさして大きくもない脳というものの役割の大きさに、驚く。そして、目に見えることよりももっと大事なものがあるという言葉の真意も、見えてくるように思える。

 だからわたしはいろいろなことを、いろいろな人のことを覚えておきたいと強く願う。他人を記憶するということは、巡って自分自身の存する証明にもなるのだと思うのだ。

見えている範囲にしか、世界は存在しない

「いやいや宇宙人はいるから」

 妻の強い語調に驚いてしまった。宇宙人がいるという前提ではなく、いることを確信している妻に驚いたのだ。

「え? いないよ」

「いない?」

「いるにしても、地球には来てないよ」

「は? いないってことは絶対にないから。もう地球にも普通に暮らしてるし」

「暮らしてる? なんで?」

 このあとしばらくいるいない、そこにいるあそこにもいる、いないいない、いない根拠

は?? いる根拠こそ教えてよ、とイエスノーのやりとりが平行線のまま続いた。

 結婚する前は、もっと地球外生命体に関して意見は一致していた気がする。こんな前提のことではなく、次の段階の話をしていたはずだ。ではどういう前提だったかと、わたしは考える。宇宙人はもちろんいるという仮定の上で、一緒に映画などを見てこれはありそうだのなさそうだのと話していたはずだ。

 どちらが変わったのか。わたしが微妙に変化したのかもしれない。宇宙人はいるだろうと思っていた。かのホーキング博士も、いると明言していたはずだ。宇宙は広大で果てがない。果てがないということはどこになにがあるか、なんでもありだということになる。つまり地球のような星は無数にあり、太陽のような星と併存して絶妙な距離を保っている星もありうる。だからそこに生命体はいる。そういう流れになる。つまり「いない」と言い切れないから、「いる」という解が出てくる。

 わたしも宇宙人というか、生命体はいるだろうと思う。人間と同等かもっと高度な生き物もいると思う。問題は、その生命体が今までに地球を訪れたか否かだ。

 地球に来るには、高度な文明という漠然とした言いかたでは済まないほどの発達した科

学技術がいる。最低でも光と同等の速さで移動できる宇宙船が必要だ。それですら何年もかかるはずだ。ただ何年で地球に来れるということは、何光年という単位内に見落としている太陽系のような星系があることになる。もちろん地球の観測技術次第では、太陽系に見落としている星があっても不思議ではない。そこに生命体がいるなら、ずいぶん近い距唯である地球に来る意義もあるかもしれない。

 光速の船では何年もかかるのだから、ワームホールのようなものを利用できる技術力を

持った生命体かもしれない。物体ではなく生命体がワームホールを通過するという仮定は、いくら相手が未知の生き物でも無理があるように思える。もっとわたしたちが思いつかないような手法で、時空を瞬時に移動できるのかもしれない。

 例えば肉体ではなく、データのようなものに存在を書き換えるとする。それを他の場所で復元すれば光速に近い速度で移動できる。電波のような波長で伝送するとなると、やはり移動速度が遅すぎるだろうか。光の速度を上限として考えてしまうと、どうしても太陽系付近から生命体がやってきているとは考えにくい。

 寿命が極端に違って時間感覚がまるで違うという可能性もある。地球と同程度の文明レ

ベルだとしても、こちらの1年がその星では1分程度でしかなければ、はるか遠くからの宇宙船飛行もなんでもないことだ。時間感覚が同じだという前提はたしかにおかしい。

 だがしかし、なんのためにくるのかということになる。高速の移動手段をもっているのなら、そんな高度な生き物が地球ごときになにを探しに来るのか。そんな技術があったら、地球程度の星はいくらでも探索して発見できるだろうし、まだ人間のような知能を持たない生物しかいない星も発見できているはずだ。

「金がないんだって。だから来ているんだって」

 妻はそう言う。金や銀やプラチナが採れない星に超高度な生き物がいるのだという。普通に考えれば、地球以外にも希少な鉱石が採れる星なんていくらでもあるんじゃないかと思うし、地球に来れるほどの生き物なら、そんな鉱石の代わりなんていくらでも生み出しそうでもある。

 さらに宇宙人は地球に潜伏しているとう。人間を殺さずにむしろ人間になりすますことで、国や企業の中枢に紛れ込む、人間を飼いならして地球を制するという発想だ。破壊行

為は行わない。

 理解できる。なんだか昔のB級映画のようだ。いずれにしても、なぜその必要が? という疑問は解消されない。

 地球とそこに暮らす人間を中心に考えるから成り立つ話であって、そもそも宇宙は無限

だから宇宙人がいるのであれば、地球のような場所も無数にあり、地球でしか目的を成しえないことは皆無だということになる気もする。

 それはともかく、幼いころから宇宙が気になってしかたなかった。そのスケールから、恐怖ばかり感じたが、大人になるにつれて宇宙人はいつ現れるだろうとワクワクしていた。

SF映画や小説を読んでは夢想していた。各地にある飛行物体の目撃は未来からの時間旅行者に違いない! と興奮したものの、それは過去に読んだ小説の中身だったとあとで知る。

 人の想像力は果てしなくて、もうあらゆることを考えているのだと、それこそまさしく宇宙のようだと思う。

 だからこの宇宙は想像の中にしかないものが具現化したものではないかと、この頃は感じてしまう。

犬が、かけてくる

 犬が好きだ。まあ猫だって好きだが、犬は格別に好きだ。けれど飼いたいとは思わない。

 必ず死んでしまうということ。出会ってから死んでしまうまで、犬はずっとわたしたち家族のことが大好きなこと。だから余計に失ったときの悲しみは強烈であること。そういった理由から、もうわたしは犬を飼いたいとは思わない。

 実家にいたころはマルチーズがいた。その子は寿命を全うして亡くなり、すぐに似ているけれども全く違うマルチーズがきた。その子もやはり亡くなった。

 最初のマルチーズは成犬の状態で実家に来た。三歳くらいだったと思う。前の家ではあまりかわいがられていなかったと聞いた。小さな子もいることでむしろ犬が邪魔になっていたと。だからうちにもらわれてきたのだ。

 その子は頭を下げてやってきた。うなだれているようにも見えた。わたしは小学生で、父も母もまだそれなりに若かった。毛並みも悪く、白いはずの毛は黄色かかっていた。犬なのだから吠えるだろうと思っていたのに、その日まるでその子は声を発しなかった。

 今回うちにもらってくる仲介をしてくれた、犬に詳しい知人の助言で夜になるとわたしたちは車の中に隠れた。人間が姿を隠せば、その子は鳴くかもしれないと言われたのだ。ワン、というありふれたひとことがききたくて、それがその犬にとって、家族になった証のような気がしてわたしたちは声をひそめて、鳴くかな、鳴かないね、とささやきあった。

 その夜犬は吠えなかったが、両親の心配と期待の入り混じった顔は、いつまでも心に残っている。

 前の家の影響でしょうと、獣医は言っていた。わざわざ病院に連れて行ったのだ。その子は、小学生のわたしにだけどうしてもなつかなかった。なつかないどころか、手を出せば歯をむき出して、それでも触ろうとすれば容赦なく噛みついてきた。手には歯形がくっきりと残り、強く噛まれれば血がにじんだ。最初こそ衝撃を受けたが、どうしても触れたくて無理に抱くこともあった。

 犬はその家の人間を階級付けして、一番下とみると自分より下だと見下すことがある。そういう話もある。餌をくれる人を主人と見るという話もある。だからわたしはちょくちょく餌やり係になった。餌を差し出しながら頭を撫でようとすれば、歯をむき出しながら尻尾を振るというおかしな状況になった。

 少しずつ、わたしと大は仲良くなっていった。噛まれても噛まれてもわたしは味方であって、君が大好きだと撫でまわし続けた。一緒に昼寝したり、庭を歩いたり、ボールを使って遊んだりしていくうちに、犬は威嚇する暇がなくなり、噛む必要性を感じなくなっていたのかもしれない。

 わたしたちは家の中で、一番同じ時間を過ごした。その子のちょっとした目つきや息遣いで、空腹なのか走りたいのかじゃれたいのか、それとも眠りたいのか、わたしにはよくわかった。わたしは中学生になって高校生になった。体はすっかり大きく、実家で一番身長もあったのだが、犬から見ればまだ子どものままなのか、時折忘れていたかのように歯をむき出した。

 歯槽膿漏になった犬は少しずつ歯が抜けて、それでもじゃれついて噛みつくことがあった。犬から見ればわたしはまだ子どもで、わたしからすればこの子こそ、成長しないかわいい犬だった。

 犬は心臓を患って亡くなってしまった。寿命といえる歳だった。そして最後の二年ほどはわたしにとてもよくなついていて、もう歯をむき出すことも強く噛みつくこともなかった。

 だから好きなだけ撫でて、抱いてやることができた。最初は鳴かなかったけれど、半年もするころにはきちんと吠えるようになった。おとなしくて、あまり見知らぬ人には吠えなかったから番犬にはならなかったが、甲高い声で吠えた。

 抱き上げると、はっとするほど温かかった。死んでしまう数日前も、温かかった。その子が死んでしまうと、その温もりと妙な静けさが実家に残った。家の中から音が消えるのはとても淋しい。その日以来、わたしは過度な静けさは好まなくなった。あまりに静かだと、どうしても犬の走ってくる音、家族を探す鳴き声、鼻を鳴らして水を飲む音を探してしまうからだ。

 小さな白い体が走ってきて、わたしに飛びついてくる感覚がある。笑っているような息遣いで、跳ねてくるあの子がいる。

 小さな一陣の風が吹き抜けていくように、たしかに感じることがある。


最後の宴

  アルコールをやめて2年が過ぎた。それまでも毎週末はテニスをして、毎日早朝にランニングをしていた。夜食やジャンクフードが厳禁なのはもちろん、ラーメンにピザやパンに揚げ物など、太るといわれるものはなるべく口にしなかったが、体重は標準の中の少し太り気味あたりにあった。それがアルコールを摂取しなくなった途端、ひと月後から体重は減り始めて1年もすると11キロ減少した。2年経った今は、14キロ減の状態で、横から見てもクリスピーピザのように薄く、筋肉のすじだけが目立つ。どうやら食べ物の制限よりも酒量を制限するほうが、はるかに減量効果はあるようだ。そして結果的に考えると、食事制限よりもアルコール制限のほうが遥かに楽だ。なんなら制限というより禁止のほうが楽だと思う。

 かつては毎日欠かさずに酒を飲んでいた。特に25歳くらいからは酒量が増え始めて、焼酎の4リットルボトルが二週間は持たなくなった。その前にビールを二缶は空けてから焼酎に入るので、結構な量になる。その焼酎も10日ほどしで空になるため、ウイスキーに切り替えた。お徳用の4リットルを買うものの、やはり二週間は持たなかった。毎日記憶がなくなり、まあ家だから問題はないのだが、なにを話したのか、ほとんど覚えていない。夕食を作ったことはもちろん、食べたことはきちんと覚えているが、布団に横になったところは断片的で、写真のように場面場面は覚えているのだが、一連の流れとしては思い出せない。映画なんかは何度見ても途中から酩酊してしまっているために記憶がなく、終わりまでなかなかたどり着けない。適量でやめておけばいいのにと、それこそ何度も言われたが、たとえばビールを二缶だけ飲んでやめるとする、そんな中途半端な酒を飲むくらいなら最初から飲まないほうがましだと、毎回答えてきた。もちろん飲まないなんて選択肢はなかった。風邪はもちろん、親知らずを抜いた日ですら痛み止めと一緒に酒を飲んでいた。もう何年もアルコールのない状態で夜を過ごしたことなどなかった。

 だがある日、やめた。別に体調不良があったわけではない。そのまま飲んでいればいつかは深刻な病気、肝臓か脳が破壊されていたとは思うのだが、それはまだずっと先のことだという思いがあった。やめた理由は単純で、週末に8時間とか16時間とか狂ったように打ち込んでいるテニスで徐々にボールを拾えなくなってきたからだった。頭では取れる、と判断しているボールを全力で走って追いかけても、数センチ差で届かなくなり、それが数十センチになってきた。ひどいときには最初の一歩が出ずに、ほとんど反応すらできないこともあった。

 なぜ前は返せていたボールに追いつくことすらできないのか、脳は取れると判断しているということは、身体が劣化していることに他ならない。加齢による運動機能の低下は抗えないが、体重が重すぎることも大きな要因ではないか、そう考え始めると一刻も早く改善しなければと焦り始めた。食べ物に関しては周囲の人に比較すれば確実に節制している自負もあったのだが、たしかにわたしよりももっと自制している人はたくさんいるし、そういう人はもっと細くしなやかな肉体を持っているのも事実だった。ならばさらに食べる量を減らすべきか、しかしそれは相当に辛いことだがと考えるうち、じゃあアルコールをやめてしまおうと思い至った。

 家にあった酒類をすべてキッチン流しに捨てた。琥珀色のウイスキー無残に捨てられていく様は、とてもシュールだと感じた。キッチン中にアルコールの臭いが立ち込めて、それは決していい香りではなかった。

 飲酒について、その後幾度か思い返した。

 初めて父親と飲んだ日のことだ。父は殊更に嬉しそうだった。ありきたりだけれど、子どもにお酌してもらうのは不思議な気分だと言った。一緒に飲むからといって急に話題が増えるわけではなく、いつものようにつけっぱなしのテレビに目をやりながら、父は笑みを崩さずに飲んだ。いつもより飲んで、顔を真っ赤にして笑っていたことを、妙に覚えている。

 飲酒はたいていの場合失敗したことばかり覚えている。吐いたことはもちろん、記憶を失っていつの間にか帰宅していたこと、気が大きくなって口論になったこと、思い返すのが恥ずかしかったり惨めだったり、もちろん楽しいこともたくさんあったはずなのだが、それらを押しのけて嫌なことばかり記憶している。

 ちょうど今年の10月に父は脳梗塞の手前の状態で入院し、退院したもののやや脳機能に障害が残っている状態で、だからだろうか、一緒に飲んだその日の幸せな記憶はすぐそこに、手を伸ばせば触れられるくらいすぐそばにある気がするのだ。

 近い気はするのに、決して届くことのない場所にその笑顔がある。


明け方のミートソース

 夜には痛みが伴う場合もあるが、朝は癒ししかない気がする。だからわたしは朝が好きなのかもしれない。
 闇が溶け出すように空が白んで、淡くもろい太陽の欠片が徐々に領域を広げていって、いつの間にか見えなかった遠くのマンションの窓ガラスや電柱に貼られたクリニックの宣伝が見えたりする。わたしの部屋の窓からはちょうど富士山が見えて、雪がカーディガンのようにかけられていると、急に部屋の暖かさが強調されたりする。
 そんな朝にキッチンに立って、あるようなないような食欲はともかく、コーヒーを飲みながら玉ネギをみじん切りにしていく。町も家の中も静かで、わたし以外に音を立てるものがない。もしかするとこの朝に起きているのはわたしだけかもしれないと思えば、少なからず特別な時間を独占している気にもなる。
 玉ネギに火が通ったところで挽肉を加えると、油のはぜる音が攻撃的になって、そこに塩コショウを振ればさらにフライパンは賑やかになる。決して音楽ではないのだけれど、どこか調理の音は心地よい。缶を開けてダイストマトを入れたら、ローリエを浮かべて、少量のウスターソースと塩コショウを追加する。
 大鍋にパスタを投入して、タイマーをセットしたらすっかり体も温まり、今のような秋口だと額にうっすら汗をかいていることもある。この時間にまな板や包丁を洗って、白いシンプルな皿を用意しておく。
 休日の早朝に、わたしはミートソースを作ることがある。嫌なことがあった週末や、微笑ましいまま迎える週末や、予定が詰まっている週末にも。要は気まぐれで、その朝を少し特別なものにしてしまいたいときに、空が明るくなっていく過程の中で料理をするのだ。
 セロリは無ければ無いで良い。挽肉も豚肉だったり合い引きだったり、滅多にないが、なんなら鶏肉だっていいのかもしれない。大切なのはこの調理するという行為だ。
 恐らく、この朝の儀式のような料理はミートソースである必要はない。カレーのほうがずっと向いていると思うのだ。面倒な工程は避けたいので、市販のルーを使いつつ、そこにクミンやガラムマサラや、コリアンダーでも良いのだが、好きなスパイスを目分量で加える。香りの立ち込めるキッチンを想像しただけで、唇が持ち上がってしまう。
 料理は食べる人のことを考えて作るものだと思う。その人が好きなメニューを、その人が好きな味付けを、もちろんわたしも日々考えて作っている。息子はハンバーグならいくらでも食べるのに、キノコのスープは苦しそうに口に運ぶ。餃子は反復作業のように口に放り込むのに、青梗菜の炒め物は見えていないかのように箸をつけない。
 だがこの朝の料理は、食べる人のことはほとんど考えていない。
 窓から見える夜の終わりを肴に、わたし自身がこっそりと酩酊していくささやかな時間なのだ。赤紫の雲を横切る鳥を目で追いながら、遠くの信号機が赤から青に変わるのを見つめながら、今この時間はひとりだと思う。
 あの空の向こうに、とわたしは考える。パスタを引き上げてそこから多量の湯気が上がる。空の向こうにはまた別の夜があって朝がゆっくりと交代しようとしている。そのさらに向こうには違う世界があって、そこには別の時間のわたしがいるのかもしれない。パスタにソースをかけて、フォークを片手にテーブルに向かいながら、違う場所にいるわたしが泣きながら夏休みの宿題をやっている様子を思い浮かべたり、切りすぎた前髪を何度も鏡の前でいじったり、家族で花火をやりながら嬌声を上げたり初めての出社を前に眠れないまま朝を迎えたり、いろいろな記憶を思い返すのだが、やはりそれらはきちんと別の世界に存在するのではなくて、すべてわたしの頭の中にしかないのだと理解すると、いつもそこで世界の成り立ちが悲しいものであるように感じてしまう。
 そして完全な朝を迎えながら、ミートソースにフォークを通すのだ。