明け方のミートソース

 夜には痛みが伴う場合もあるが、朝は癒ししかない気がする。だからわたしは朝が好きなのかもしれない。
 闇が溶け出すように空が白んで、淡くもろい太陽の欠片が徐々に領域を広げていって、いつの間にか見えなかった遠くのマンションの窓ガラスや電柱に貼られたクリニックの宣伝が見えたりする。わたしの部屋の窓からはちょうど富士山が見えて、雪がカーディガンのようにかけられていると、急に部屋の暖かさが強調されたりする。
 そんな朝にキッチンに立って、あるようなないような食欲はともかく、コーヒーを飲みながら玉ネギをみじん切りにしていく。町も家の中も静かで、わたし以外に音を立てるものがない。もしかするとこの朝に起きているのはわたしだけかもしれないと思えば、少なからず特別な時間を独占している気にもなる。
 玉ネギに火が通ったところで挽肉を加えると、油のはぜる音が攻撃的になって、そこに塩コショウを振ればさらにフライパンは賑やかになる。決して音楽ではないのだけれど、どこか調理の音は心地よい。缶を開けてダイストマトを入れたら、ローリエを浮かべて、少量のウスターソースと塩コショウを追加する。
 大鍋にパスタを投入して、タイマーをセットしたらすっかり体も温まり、今のような秋口だと額にうっすら汗をかいていることもある。この時間にまな板や包丁を洗って、白いシンプルな皿を用意しておく。
 休日の早朝に、わたしはミートソースを作ることがある。嫌なことがあった週末や、微笑ましいまま迎える週末や、予定が詰まっている週末にも。要は気まぐれで、その朝を少し特別なものにしてしまいたいときに、空が明るくなっていく過程の中で料理をするのだ。
 セロリは無ければ無いで良い。挽肉も豚肉だったり合い引きだったり、滅多にないが、なんなら鶏肉だっていいのかもしれない。大切なのはこの調理するという行為だ。
 恐らく、この朝の儀式のような料理はミートソースである必要はない。カレーのほうがずっと向いていると思うのだ。面倒な工程は避けたいので、市販のルーを使いつつ、そこにクミンやガラムマサラや、コリアンダーでも良いのだが、好きなスパイスを目分量で加える。香りの立ち込めるキッチンを想像しただけで、唇が持ち上がってしまう。
 料理は食べる人のことを考えて作るものだと思う。その人が好きなメニューを、その人が好きな味付けを、もちろんわたしも日々考えて作っている。息子はハンバーグならいくらでも食べるのに、キノコのスープは苦しそうに口に運ぶ。餃子は反復作業のように口に放り込むのに、青梗菜の炒め物は見えていないかのように箸をつけない。
 だがこの朝の料理は、食べる人のことはほとんど考えていない。
 窓から見える夜の終わりを肴に、わたし自身がこっそりと酩酊していくささやかな時間なのだ。赤紫の雲を横切る鳥を目で追いながら、遠くの信号機が赤から青に変わるのを見つめながら、今この時間はひとりだと思う。
 あの空の向こうに、とわたしは考える。パスタを引き上げてそこから多量の湯気が上がる。空の向こうにはまた別の夜があって朝がゆっくりと交代しようとしている。そのさらに向こうには違う世界があって、そこには別の時間のわたしがいるのかもしれない。パスタにソースをかけて、フォークを片手にテーブルに向かいながら、違う場所にいるわたしが泣きながら夏休みの宿題をやっている様子を思い浮かべたり、切りすぎた前髪を何度も鏡の前でいじったり、家族で花火をやりながら嬌声を上げたり初めての出社を前に眠れないまま朝を迎えたり、いろいろな記憶を思い返すのだが、やはりそれらはきちんと別の世界に存在するのではなくて、すべてわたしの頭の中にしかないのだと理解すると、いつもそこで世界の成り立ちが悲しいものであるように感じてしまう。
 そして完全な朝を迎えながら、ミートソースにフォークを通すのだ。